ラッダイト運動という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
イギリスで起こった産業革命では様々な機械が導入されることとなりました。
そのため機械が導入されるとなると労働者が必要なくなるのではないか、という事は労働者たちは失業するのではないか、と怯えた人々が反対運動を開き起こすことになるのです。
ここではイギリスで起こったラッダイト運動について解説します。
ラッダイト運動とは何か
ラッダイト運動というのは主に1811年から1817年にかけてイギリスで起こった機械破壊運動のことを指します。
日本史の場合は打ちこわし運動などと言われることがありますね。
産業革命が起こったら機械が導入されますので、失業を恐れた労働者や手工業者たちがこの打ちこわし運動を起こしました。
ラッダイト運動のラッダイトという語源は実は未だに謎のままですが、ニット製造機を破壊した少年、ネッド・ラッドという名前を語源にしているのではないかと考えられています。
ラッダイト運動への取り締まり
産業革命において、機械を壊されてしまうラッダイト運動は資本家にとっては面倒なものでしかありませんでした。
そしてイギリスにおいては1769年、このような機械破壊運動が犯罪とされたのです。
1811年2月、このような機械を壊すラッダイト運動をした場合は死罪にするという法案が提出されました。
例えば詩人であるバイロンなどはこの法案に反対していますが、1812年3月にはこの法案が可決され、ラッダイト運動を行った場合は処刑されるということが決まりました。
しかしその一方で襲撃者自体を発見するということがなかなかできず、機械を壊した人間を捕まえ、処刑するということ自体は極めて困難であったと考えられています。
もしもラッダイト運動を指導したものを捕まえた場合は2000ポンド以上の懸賞金がかけられたとき言われています。
1816年以降のラッダイト運動
1813年1月13日、3名のラッダイト運動関係者に対して死刑宣告が行われ、その3日後、15人の労働者が処刑されることになりました。
その後しばらくこのような運動は見られず、いちどはおさまったかのように考えられましたが、その3年後から再燃するようになります。
ノッティンガムで脱穀機の打ちこわしが行われ、軍隊までが出動しなければいけない事態になりました。
労働者の弁護をしていた詩人のバイロンはラッダイト運動に加わる人々はアメリカ独立戦争の人々に似ていると詩に残しています。
まとめ
いかがでしょうか。
死刑になるという状態であっても機械の打ちこわしを始めた労働者にとって、機械が導入されるという事は失業そのものでした。
もちろん今のように転職できるという時代でもありませんから、それを恐れて彼らはラッダイト運動を繰り返していったのです。